大阪市の歴史と未来

大阪市民城(天守閣)も 府へ移管(没収)とは 誠に遺憾!(2)

大阪城天守閣から茶色の建物が旧陸軍庁舎
大阪城天守閣から茶色の建物が旧陸軍庁舎

関市長の提案そのものは、昭和天皇就任を祝う大阪市の「御大礼記念事業」として企画されたものでした。しかしそれがなぜ軍事基地の中枢に割り込んで市民公園をつくることと一体の天守閣復興計画だったのか。天守閣に登れば誰でも眼下の軍事施設を一望できます。軍部暴走が目立ち始めた時代に、何故軍部がこれを受け入れたのか。謎の解明はまだ一部の研究者によって始まったばかりといえますが、政府財政難の折から陸軍第四師団司令部総合庁舎(天守閣南部に現存。1960~2001年大阪市立博物館に転用)の建設費を市が全額持つとの条件提示が決め手となったようです。

大阪城公園も市民の寄付で

「記念事業」の予算総額は150万円。78000余口の市民寄付で全額賄ったとされています。じつはこのうち80万円が師団庁舎建設費、公園造成に約23万円、天守閣建設に約47万円。意外な事実ですが、国費も市費も使わずに全部市民寄付金というのが重要。

当時、この寄付に参加した市民や元市民は一様に「天守閣はわれわれが作った」と自負し、その子や孫にも自負が伝わっています。「市民城」たるゆえんです。ほんとうは大阪城公園の母体をつくったのもみんな大阪市民の同じ寄付金だったのです。

市立の「市民城」だからこそ

話を天守閣に戻せば、戦後も一貫して市の管理下にあって、膨大な市費を投じて展示資料の購入が続けられ、また、市立の「市民城」であればこそ多くの篤志家から貴重な文化財を数多くご寄付いただくことができ、それらがあいまって大阪城天守閣の特色ある歴史博物館施設としての今日があります。長い積み上げのある市民の文化遺産を簡単に府に移管・没収など許される話ではありません。

元大阪城天守閣館長 渡辺 武