天神橋筋を語るとき、その地にある大阪天満宮と天満地域を共に語らないと、この街の存在感が分かりません。
千数百年前の事、天満が「八十島」といわれる無数の島々であった頃、大阪天満宮は創祀されました。怨念がもたらした天変地異に恐れをなした時の天皇が、大阪天満宮を創り「菅原道真公」を崇め、その雷神を鎮めたと言われています。
時は949年。北野天満宮に次いで二番目の天神さんです(三番目の太宰府の天満宮)。そして創祀された翌年、「鉾流し神事」が行われ、以後天神祭は延々とその歴史をつないでいるのです。その事は天満人といわれる地域人がいかに天神さんを愛し、天神祭を地域の象徴として、日本三大祭の一つである天神祭を今日まで続けているかの証しでしょう。
以来、天満は大阪の中心地として「キタ」「ミナミ」、そして天満を大阪三郷とした浪速の街の発展に大きく寄与してきました。
「天神橋筋」と地名がついたのは明治以降ですが、その昔は「十丁目筋」と呼ばれていました。それは東の大川、現在の帝国ホテル辺りから西へ筋を数えていくと、この天神橋筋は十番目にあたります。
以来、栄枯盛衰を繰り返してきた天神橋筋の最南は「天神橋」。この橋は十数橋ある公儀橋(天満橋、難波橋、高麗橋など)の中の一つです。一丁目から三丁目までは江戸時代に形成され、四丁目から八丁目は明治以降といわれています。
以来、天満は多くの変遷を経て今日に至っていますが、常に「民」主導型の街づくりが功を奏しているのです。
天神橋筋の街あきんど 土居 年樹