「浪華の八百八橋」の由来
江戸時代の大阪は、江戸の「八百八町」、京都の「八百八寺」と並んで、「浪華の八百八橋」と呼ばれていました。本当はそんなにありませんが、街の勢いをそう表現したのです。実際の橋の数を比べると江戸の約350に対して、大阪には約200ほどしか架けられていません。
大阪がなぜ八百八橋の町と呼ばれたのかは、誰が橋を架けたのかに由来します。
町人が自腹で架けた「町橋」
江戸の橋は、約350ある橋の半分が「公儀橋」と呼ばれる幕府が架けた橋でした。
一方、大阪では、「公儀橋」は「天神橋」「高麗橋」などわずかに12橋。残りの橋は、全て町人が生活や商売のために自腹を切って架けた「町橋」だったことからそう呼ばれたのです。
大阪市役所の南側を流れる土佐堀川に架かる「淀屋橋」は、江戸時代に諸国から大阪に上ってくる諸藩の米を売りさばく米市を北浜に開き巨万の富を得た豪商淀屋の名を冠したものです。淀屋の豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり私財が没収され、淀屋橋は「公儀橋」にされ、現在も重要な交通路として御堂筋を支えています。
大阪人がつくった財産
中央公会堂は明治の株式仲買人である岩本栄之助が当時の100万円を寄付し、府立図書館は住友家の寄付によって建てられたものです。
幕府や政府に頼らず大阪人が自らつくった街の財産が、いま、大阪市民の共有財産として引き継がれています。
橋下市長は、「都」構想で大阪市をなくし、市民の共有財産を売り飛ばそうとしています。歴史も伝統もふみにじるものです。とても許せるものではありません。